幽霊

 

北杜夫の処女長篇。27〜28年にかけ「文芸首都」に分載、昭和29年に自費出版された。

 

 第1章

 少年のぼくは、母の部屋が好きだった。部屋には、日本間には似つかない彫刻をほどこした木縁の大きな鏡があった。母は鏡の機嫌をとるかのように入念に部屋のなかを洋風にしつらえた。                                

 ぼくは、ある種の形に興味をもっている。よく絨毯のうえにかがみこんで、そこに白く染めぬいてある模様に、枝葉や人を見た。そのことを母に伝えると、これは鳥でしょう、という。そう言われてみると、たしかに鳥に見えてくるので、ぼくには母が魔法を使ったとしか考えられなかった。

 唾に似た白い泡から出てきた黒と赤の縞のある虫/女郎蜘蛛の伝説/赤蜻蛉/褪紅色の翅

 また父の部屋も好きだった。学者の父は部屋中を本だらけにして、まるで本の方が主人のようみえた。そんな父は若くして辺鄙な街で、狭心症で死んでしまう。

 父が死んでから、母も不在の日がつづいた。そして、ある日を境にもう2度と帰ってくることはなかった。